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東京地方裁判所 昭和63年(行ウ)3号 判決

原告 株式会社 京都福田

右代表者代表取締役 福田稔

右訴訟代理人弁護士 桑嶋一

同 前田進

同 置田文夫

同 山村忠夫

被告 中央労働委員会

右代表者会長 石川吉右衞門

右指定代理人 萩澤清彦

〈ほか三名〉

被告補助参加人 京都福田労働組合

右代表者執行委員長 村井俊之

右訴訟代理人弁護士 中尾誠

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用(参加によって生じた費用を含む。)は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  中労委昭和六〇年(不再)第四七号事件及び同昭和六一年(不再)第二四号事件について、被告が昭和六二年一一月四日付けをもってした不当労働行為救済命令を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

第二事案の概要

一  救済命令の成立に至る経緯(争いのない事実等)

1  当事者等

原告は、生コンクリートの製造及び販売、山砂利の採取及び販売、建設資材・石油・タイヤ等の販売並びに損害保険の代理店業務を営んでおり、その従業員数は昭和六三年四月二六日現在一三六名である。

村井俊之は、昭和五三年一一月一日に原告に入社し、総務部総務課に配属された後、同課主任及び城陽工場管理課長をへて、昭和五八年九月一日に企画管理部主任となった。

安岡豊は、昭和五四年一月九日に原告に入社し、営業部に配属され、昭和五七年四月に同部営業二課主任となった。

金井綾子は、昭和五四年三月五日に原告に入社し、総務部経理課に配属され、昭和五七年九月一日に同課主任補佐となった。

2  参加人組合の結成

原告は、昭和五九年四月一一日、総務課課員金本良宣が同月二日の朝礼において交付された人事異動の辞令を破損したことを理由として、同人を解雇した(金本は、同年五月、京都地方裁判所に地位保全等の仮処分申請を行い、また、同年九月、同裁判所に雇用契約上の地位確認等を求める訴えを提起し、いずれも認容された。)。

同年五月二二日、金本の職場復帰への支援、労使関係の近代化、労働条件の向上等を目的して、原告の従業員をもって参加人組合が結成され、当時企画管理部主任であった村井が執行委員長に、営業部営業二課主任であった安岡が副執行委員長兼書記長に、経理課主任補佐であった金井、企画管理部の高田孝平ほか二名が執行委員に就任した。金本も組合に加入した。

参加人は、同年六月六日、組合の名称及び執行部役員の名を記載した文書で原告に対し結成通告を行った。

3  村井、安岡、金井に対する役職解任又は役職解任を伴う配置転換

原告は、同年九月一日、新規採用を含む一三名の定期人事異動を行った。この人事異動においては、原告は、村井を企画管理部主任から解任し、安岡を営業部営業二課主任から解任したうえ同部営業一課へ配転し、金井を総務部経理課主任補佐から解任したうえ同部総務課へ配転した(以下「本件人事異動」という。)。その結果、村井及び安岡は主任の役職手当月額四万円を、金井は主任補佐の役職手当月額一万五〇〇〇円をそれぞれ失うこととなった。

参加人は、同年九月一四日、右役職解任、配転は不利益取扱い及び支配介入であるとして、京都府地方労働委員会(以下「京都地労委」という。)に不当労働行為救済申立てを行った(京労委昭和五九年(不)第一一号事件)。

4  安岡に対する解雇

安岡は、昭和六〇年二月一九日、同月二一日からタイヤ修理工場に応援に行くよう山木課長に命じられ、同月二八日、原告から改めて社長名で、同年三月一日から三一日までの間タイヤ修理工場へ配転を命ずる旨の文書を交付された。これに対し、同年三月一日、参加人は、安岡に対する右命令を拒否する旨を原告に通知した。

同月六日、安岡に対する原告の賞罰審査委員会が開かれ、その後常務会に同委員会の結論が報告され、常務会は安岡を通常解雇とすることを決定した。そして、同月八日、原告の取締役総務部長秦千代子から安岡に対して解雇通知書が交付された。

参加人は、同年七月一〇日、安岡の解雇について、京都地労委に不当労働行為救済申立てを行った(京労委昭和六〇年(不)第六号事件)。

5  救済命令の成立

京都地労委は、前記両事件について、昭和六〇年九月一三日付け及び昭和六一年三月六日付けで別紙一記載の主文の救済命令(以下「初審命令」という。)を発した。

原告は、右初審命令を不服として被告に対し再審申立てをしたが(中労委昭和六〇年(不再)第四七号事件、昭和六一年(不再)第二四号事件)、被告は、昭和六二年一一月四日付けをもって、別紙二記載の主文の救済命令(以下「本件命令」という。)を発し、この命令書の写しは同年一二月一七日に原告に交付された。

二  争点(本件命令の違法事由)

本件において、原告は、本件人事異動及び安岡に対する解雇を不当労働行為とした本件命令の事実認定及び判断をほぼ全般にわたって争っているが、原告が本件命令の違法事由として主張する点は、次のとおりである。

1  本件人事移動について

原告が村井、安岡、金井に対して本件人事移動を行ったのは、次のとおり、企画管理部主任の村井、営業部営業二課主任の安岡、経理課主任補佐の金井の各地位と職務内容が組合員又は組合役員たる立場と両立しなかったからであり、不当労働行為に該当するものではない。

村井は、経営方針、業務全般の合理化及び組織機構に関する調査・研究・立案並びに社長及び常務会からの特命事項等を所管する企画管理部において主任の職にあり、部長も課長もおかれていない同部の実質的な責任者として部内の指揮監督を行い、労働組合との集団交渉の目的も有している企業者による組合である近畿砂利協同組合(以下「砂利協」という。)の会議に社長の代行として出席していた。さらに、原告の戦略会議と位置付けられている管理部門会議の構成員であったが、同会議では、人員配置、適材適所の問題、社員教育等人事に関することも取り扱われ、また、財政、生産販売計画等も討議されていた。これらのことを通じて、村井は原告の経営全般に関する機密を知り得る立場にあった。

安岡は、営業部営業二課の主任として部内の人事や予算にかかわり、石油及び保険に関する業務においては自らの判断で業務を行い、村井と同様管理部門会議の構成員であり、これらのことを通じて原告の経営全般に関する秘密を知り得る立場にあった。

金井は、原告の機密文書及び経理関係書類の入っている大金庫のダイヤル番号を知っており、債権打合せ会議に出席し、得意先の信用調査を行い、また、決算書の作成にかかわり、資金計画の立案を行っていた。その中には原告の機密に属する事項も含まれていた。

2  安岡に対する解雇について

安岡に対するタイヤ修理工場への応援命令は、次のとおり必要があり、正当であったから、これを拒否した安岡を解雇したことは不当労働行為に当たらない。

タイヤ修理工場は、株式会社ブリジストンと締結したタイヤショップ契約の前提条件として整備を必要とされていた不可欠の施設であり、タイヤ販売政策上重要な部署であって、人員配置の充実を図る必要があった。当時のただ一人の担当者嵓は、腰痛で休業した後昭和六〇年一月一六日に復帰したばかりであり、補助的にもう一人応援員を派遣する必要があった。そこでタイヤ販売、集金業務の経験もある安岡に対し、前記のとおりタイヤ修理工場への応援を求めたのである。

3  金井に対する救済命令について

金井は、昭和六一年二月二五日をもって原告を退職したが、その際、在職中会社との紛争から生じた一切の権利を放棄し、請求しない旨を明らかにした。したがって、本件命令中同人の役職手当の支給に関する部分は、失当である。

第三争点に対する判断

以下の事実認定においては、証拠を認定事実の末尾に挙示することとする(証拠の挙示のない事実は、当事者間に争いがない。)。

一  本件人事異動について

1  村井の企画管理部主任職と組合員の立場が両立しないか

(一) 企画管理部主任は本社主任の一つであるが、本社主任は、就業規則六五条では労働基準法四一条二号の「監督若しくは管理の地位にある者又は機密の事務を取り扱う者」に該当するとはされていない。

原告の職制規程上、本社主任は管理職の一つとされてはいるが、同規程四条は「組織単位の長に欠員を生じ適格者がいない時は直近上長がこれを兼務するものとする」としているから、部長や課長が欠けているときも主任がその職務権限を行使することはなく、しかも、同規程二四条では、部長、課長が本社主任にその権限を委任できるのは、所属員の出張を命じること、社長印の押印を申請すること、課長が所管事務に関する法令の履行につき監督することに限られている。そして、本社主任の職務としては、職制規定二二条によれば、課長の命を受け所管単位の職務を指導監督するほか、所管単位内の職務割当、執務方法の改善の提案、課員の人事についての意見具申、課員の指導教育等が定められている。

原告の職務権限規程上、企画管理部主任は各部主任の共通の決済権限として、経費の仮出金、清算、用度品の購入について、一件五〇〇〇円までの決済権限を有するのみである。

(二) 原告は、昭和五八年九月一日、組織強化を図るため、設備管理部を廃止し、企画管理部を設置した。企画管理部の行っていた業務は、骨材採取、建築・土木工事に係る行政機関への許認可の申請手続、東京支店開設の準備作業、設備台帳の作成、社有不動産の地図、測量図等関係図面の整理、各種OA機器についての情報収集、骨材採取場の跡地利用等の検討などである。

企画管理部は、設置当初から昭和五九年六月一八日に次長として田正憲が入社するまでの間は、村井と役職のつかない部員二名のみで構成され、部長、次長、課長はおかれておらず、社長が同部の担当役員となっていた。

村井は、田次長の入社前は、日常の業務において必要が生じたときは、総務部長又は同部担当役員である社長に相談し、指示を受けていた。田次長の入社後は、同次長の指示を受け、毎月開催される管理部門会議で報告するために企画管理部が作成する資料は、村井が押印の後、田次長も押印のうえ社長が決済し、企画管理部員の休暇等に関する届出については、次長が届出用紙の所属長欄に押印した後、総務課に回されていた。

また、企画管理部員の勤務評定には、昭和五九年六月の組合結成通知前から村井は関与していなかった。

(三) 村井は、企画管理部主任となった直後から、砂利協の理事をしていた原告の営業部担当役員である家田取締役に代わって、砂利協の会議等へ出席するほか、砂利協に関する事務を行っていた。砂利協は、城陽市及びその周辺の山砂利採取業者で組織された協同組合で、骨材の共同販売及び協同採取業に関する事業を行っている。原告は砂利協の目的に労働組合との集団交渉ということも含まれていたと主張するが、設立趣意書の設立目的には、右趣旨の記載はなく、事実上も砂利協が使用者の立場で労働組合と交渉を行ったことはなかった。

村井は、砂利協の会議における議案等に対して賛否の意思表示をする場合には、事前に常務会に照会してその承認を得たうえで、原告としての意思表示を行っていた。

砂利協の会議に出席することは、その理事をしていた取締役の代理としてであり、これが企画管理部主任の固有の職務であることを認めるに足りる証拠はなく、現に村井は、前記の組合結成通知より後は砂利協の担当をはずされていた。

(四) 村井は、昭和五八年九月一日から原告の管理部門会議の構成員であった。

管理部門会議は、社内会議規則一条により、社内会議の一つとされており、同規則六条は、社内会議は検討機関であって、決済権限はない旨規定している。その構成員は、各期ごとに常務会で決定され、原則として、常務会の構成員と本社主任以上又は工場課長以上の管理職とされている(管理職とされていない主任補佐が構成員となった例もある。)。会議は毎月一回定例的に開催されていたが、その際、各部や各工場などの部門ごとの発表者から人員増の要望、社員の研修等に関する事柄が発表されたり、労務費の執行状況に関する意見が出されたりすることはあったものの、採用、解雇、異動、昇進が議題になったことはなく、予算の決定やその修正が行われたこともない。各部門ごとの報告資料の作成には、一般課員も関与していた。管理部門会議では、質疑応答に基づいて、業務への取組方法の是正が確認されるに止まり、直接決裁することはなかった。管理部門会議の出席者は、社内会議規則九条の規定に基づき、その所属する部、課員に対し、会議の内容に関して所要の事項を周知させることになっている。

(五) 以上の当事者間に争いのない事実及び認定事実によれば、本件役職解任当時において、村井の企画管理部主任職と組合員の立場とが両立しなかったものということはできない。すなわち、原告の各種規程上は企画管理部主任の職務権限はかなり限定されており、実際上も村井は、部長及び課長が欠けていた当時でも特段重要な職務権限を行使していたとは認められないうえ、本件役職解任の時点においては既に田次長が就任していたのであるから、原告の主張するような企画管理部の実質的責任者であったということはできない。砂利協に関する事務についても、その活動内容からみて組合員であることが特別支障となるともいえないし、仮に問題であるとしても、その事務が企画管理部主任の固有の職務であると認められないうえ、村井はこれを担当しなくなっていたのであるから、これも原告の主張を根拠付けるものではない。さらに、管理部門会議についても、その実態からみて、村井がその構成員であったからといって原告主張のような経営全般に関する機密を知り得る立場にあったということはできない。

2  安岡の営業二課主任職と組合員の立場とは両立しないか

(一) 営業二課主任も本社主任であり、その各種規程上の地位については1の(一)で述べたとおりである。そのほか、営業部の主任は、商品の仕入れ業務、販売業務、総額五〇万円までの仕入れ価格、販売価格の決定、一件一万円までの得意先接待の決済権限を有している。

(二) 営業二課は、営業部に属し、昭和五九年四月一日以降同年八月三一日までは西原課長、安岡主任、営業部部長付梅本紀一及び四名の一般課員(うち一名はタイヤ修理工場常勤の嵓浩二)で構成されていた。

営業二課の担当は、原告の取扱い商品のうち生コンを除くすべての商品の販売と土木工事請負であったが、安岡は、このうち主として石油業務及び保険業務を担当していた。

石油業務としては、石油元売り業者である出光興産からの仕入と顧客への販売とがあったが、具体的には安岡は、燃料油注文ルートの変更の連絡、給油所買収についての営業部長への意見具申、原告の決算書の出光興産への提出、燃料油販売のための空ドラム缶の購入、出光興産のセールスマン研修の受講などを行った。

保険業務は、いわゆる損害保険の代理店業務であり、この業務として安岡は、保険料の立替え、保険拡販キャンペーンの企画、実施、交通事故示談の援助、保険の勧誘と保険料の領収などを行った。

このほか安岡は、土木工事請負に関して、宇治田原造成工事の見積り、下請け業者の選定、総務課あて労災保険加入手続の依頼、パーティ券の購入、新聞に協賛広告の掲載なども担当したことがあった。

さらに、安岡は、保険、石油の営業担当者として売上予算の作成に関与していた。

(三) 安岡は、課員の昇格の意見具申を含め人事に関する業務は全く行ったことはなく、課員の勤務評定もしていない。

(四) 安岡は、昭和五八年九月一日から管理部門会議の構成員であったが、管理部門会議については1の(三)で述べたとおりである。

(五) 以上の当事者間に争いのない事実及び認定事実、すなわち、原告の各種規程上の営業部主任の権限、安岡が実際に担当した職務、管理部門会議の内容等によれば、村井について説示したところと同様に、営業部営業二課主任である安岡の地位と職務内容が、自らの判断で業務を行い、原告の秘密に触れるものであったとは認められず、本件役職の解任を伴う配置転換当時、安岡の営業二課主任職と組合員の立場とが両立しなかったということはできない。

3  金井の経理課主任補佐職と組合員の立場は両立しないか

(一) 本社主任補佐は、就業規則六五条で労働基準法四一条二号の「監督若しくは管理の地位にある者又は機密の事務を取り扱う者」に該当するともされていないし、職制規程上も、管理職又は准管理職とされてはいない。職制規程及び職務権限規程のいずれにおいても、本社主任補佐の職務と権限については定められておらず、就業規則七条によると、本社主任補佐は本社において最も下位の職制とされている。

(二) 経理課は総務部に属し、昭和五九年四月一日以降同年八月三一日までは、大谷経理課長、金井主任補佐ほか四名の一般課員で構成されていた。

(三) 金井は、経理課主任補佐として、賞与又は定期昇給の査定額の賃金台帳への記載、決算事務、経理課関係の社内連絡文書及び稟議書の保管、不渡手形が発生した場合の営業部及び総務課等への連絡、工場における小口現金の検査などのほか、次の業務を担当していた。

(1) 金庫室の管理に関する事務

本社三階にある金庫室には、経理課及び総務課の金庫や書類が保管されており、関係者以外は原則として立入禁止とされ、領収書等については無断持出禁止となっていた。金庫室を開けるダイヤル番号を知っていた者は、秦総務部長、大谷経理課長と金井だけであった。経理課以外の課の者が金庫内の経理課の書類を必要とする場合には、一般課員であっても、経理課の了解を得たうえで金庫室に立ち入り、持ち出すことができ、総務課の課員が総務課の書類を見るために金庫室へ立ち入る場合には、経理課に声をかけることはなかった。金庫室は、午前八時半ころから午後五時ころまで鍵が開けられたままになっていた。また、昼休み時間中の管理は総務課の男子課員及び経理課の課員が当番で行っていた。

(2) 債権打合せ会議への出席

金井は、経理課長の大谷とともに債権打合せ会議に出席していた。同会議は、不渡り手形の報告と対策ととも売掛金で未収金となったもの一件ごとに経理課の一般課員が作成した報告書に基づいてその処理が検討される会議である。

(3) 信用調査に関する事務

金井は、大谷課長の指示を受け、取引のある金融機関に関係業者の経営状況等について電話で紹介する事務を行っていた。信用調査のために興信所を利用することもあったが、それにかかわったのは大谷課長と業務課の狩野主任であり、金井は関与していなかった。興信所から提出されていた調査報告書は営業部内において回覧されていた。

(4) 資金繰りに関する事務

毎月の総収入と総支出を月初に算出して、過不足の計算をするという資金繰りに関する事務を担当していた。どの金融機関からどれだけ借り入れるかの判断や融資を受けるに当たっての金融機関との交渉は、大谷経理課長が担当していた。

(四) 以上の当事者間に争いがない事実及び認定事実、すなわち、原告の各種規程上の経理課主任補佐の地位、金井が実際に担当していた職務によれば、経理課主任補佐である金井の地位と職務内容が原告の秘密に触れるものであるとは認められないから、本件役職の解任を伴う配置転換当時、金井の経理課主任補佐職と組合員の立場とが両立しなかったということはできない。

4  組合結成後の原告の組合に対する姿勢

参加人組合の結成通告の後、原告は、参加人組合やその組合員に対して、次のような対応をしていた。

(一) 昭和五九年六月七日、村井、安岡、金井らが、原告本社駐車場付近で「組合ニュース」と題したビラを配布したところ、ビラ配布後、秦総務部長は、村井に対し、原告構内でのビラ配布を止めることや配布する場合は事前に会社に知らせることなどを申し入れた。

同月九日、営業部における早朝会議の席上、福田営業部長が、話の中で、組合活動している村井のことに触れ、「村井は組合ボケしとるのや、組合ボケしたような奴は会社にはいらん、会社をなめたらえらい目に合うぞ、ボーナスできっちり査定してやる」などと発言した。

同月一八日、秦は、村井に対し、同人の企画管理部の責任者としての立場と組合の執行委員長としての立場が相入れない旨を述べ、同人を同部においておけない、砂利協の担当をはずすなどと発言した。

同月一九日、村井、安岡、金井、金本らが午前八時過ぎころ、本社門前の路上でビラを配布していたところ、福田は、「子供ら集めて何さらしとるんじゃ」などといいながら、いきなり金本のほおを殴打し、それを止めようとした村井のネクタイをつかんで押し付けるなどの行為を行い、ビラ配布終了後、村井と安岡が、福田の言動について秦に抗議していたところ、その場にやって来た福田は、「おまえらどこの会社に来てやっとるんや、管理職でなかったら何もいわん、おまえら二人は許さん」などと大声で村井、安岡を怒鳴りつけた。

(二) 同年六月二三日に参加人組合から要求のあった団体交渉につき、原告は、同年七月一四日に行う旨回答したが、同日参加人組合から組合側交渉員の氏名及び人数の通知を受けたところ、同通知で交渉員とされていた南地区労働組合協議会の事務局長及び当時解雇されていた金本組合員につき、同人らは部外者であるから交渉員と認めないなどと主張して、団体交渉を開始するに至らなかった。その後も、同年七月及び八月に組合から原告に対して数回団体交渉の申入れがされたが、これらの申入れにつきいずれも、部外者は交渉員と認めないなどとして団体交渉に応じなかった。

同年八月二九日、参加人は、京都地労委に対して団体交渉の促進についてあっせんを申請した。その後同年一二月、昭和六〇年一月にも金本を交渉員とすることを認めないとして団体交渉に応じなかったので、参加人は、同月三〇日、京都地労委に不当労働行為の救済申立てをしたことがあった。

(三) 原告は、原告気付けで組合あてに届いた郵便物を組合に無断で発信人に返送したことがあった。

(四) 本件人事異動後、村井は、昭和六〇年四月一七日、社長から就業規則を読むように指示され、その後田次長から具体的な業務分担はないから、自分の興味のある作業をするようにといわれた。同月二二日、企画管理部で座席と電話の配置換えがあり、村井の机上にあった電話が他の机に移動され、その後社内に配布された電話番号表に村井の電話番号は記載されなかった。

(五) 安岡は、本件人事異動により昭和五九年九月以降営業一課に配属になり、生コンクリートの納入現場に立会うという仕事(デリバリー)を命じられた。本件人事異動前にはデリバリーは主に課員の安本哲治と同年三月入社の窪田光広が担当していたが、安本は若干の得意先の割当てを受けていた。ところが、本件人事異動により安岡と窪田がデリバリー担当となった後においては、安岡には以前生コンクリート販売業務に従事し、得意先との交渉を行っていた経験があり、安岡と入替わりに営業一課から営業二課へ移った滝村吉弘の得意先を課員に配分したにもかかわらず、安岡に対しては得意先が割り当てられなかった。さらに、昭和六〇年二月一五日に課員安本哲治が退職した際も、同人の得意先は他の課員に配分されたが、安岡には全く配分されなかった。

(六) 金井は、昭和五九年九月に総務課に移動した後、物品管理の仕事に従事した。昭和六〇年五月二七日、総務課主任平井聖治から使用済み封筒を再利用するため裏返して糊付けすることと就業規則を読むことを指示され、他の仕事はほとんどない状態であった。

右の当事者間に争いのない事実及び認定事実によれば、原告は、参加人組合の結成に不快感を抱き、これを嫌悪していたものと認めることができる。

5  不当労働行為の成否

以上によれば、本件人事異動は、原告において村井、安岡及び金井が組合を結成し、組合役員として活動していることを嫌悪してなされた不利益取扱いであるとともに、労働組合活動への抑止的効果を意図した支配介入であると認められる。

二  安岡に対する配転命令拒否を理由とする解雇について

1  安岡をタイヤ修理工場に応援させる必要性があったか

(一) 原告のタイヤ販売は、本社営業二課とタイヤ修理工場において取り扱っていた。

タイヤ修理工場は、原告本社から南南東に直線距離で約一七キロメートル離れた城陽市奈島に、原告の城陽工場と近接して立地していた。タイヤ修理工場の前には国道が通っており、バスの停留所もあるが、鉄道の便は最寄りの国鉄奈良線の山城青谷駅まで直線距離で約三・三キロメートルあった。タイヤ修理工場への通勤のため一般公共交通機関を利用すると、乗り換えのための待時間を除いても本社からは約一時間、京都市西京区にある安岡の自宅からは約一時間五〇分を要した。

タイヤ修理工場においては、主に工場の前の道路を通るダンプ業者が顧客であり、その注文により、タイヤを販売し、通常は工場内で販売したタイヤの取付け作業等を行うが、まれに出張サービスとして顧客の方へ出向いて取付け、修理等の作業を行うこともあった。代金の支払については、売上伝票に基づき本社業務課が請求書を作成、発行し、客が工場に代金を持参するのが通常の形態であり、集金に行くのは一部に限られていた。

(二) 原告は、昭和五六年三月に、ブリジストンタイヤ株式会社とタイヤショップ契約を締結し、ブリジストンの特約代理店となった。原告は、タイヤ修理工場の存在が右契約の必要不可欠の条件であったと主張し、《証拠省略》中には、タイヤ販売店では作業を行なうための設備が必要不可欠であるとの部分がある。しかし、右タイヤショップ契約においては、タイヤ修理工場が当該契約締結又は維持のため必要不可欠な前提であるとする条項はなく、また、原告の東京支店もブリジストンのタイヤ販売をおこなってきているが、東京支店にはタイヤの修理工場はないこと、本社営業課においては原告の従業員が外交活動をして注文を取り、ブリジストンが直接タイヤの納品や修理を行っていたこと、原告のタイヤ修理工場の位置、その主な顧客が前記のとおりであることに対比すれば、タイヤ修理工場が右契約の必要不可欠の条件であったとは認められない。

(三) タイヤ修理工場での販売取扱い件数は、昭和五八年九月から六〇年六月までの平均で、一日に約二・七件で、出張サービスは同じ期間内において月平均約一・五件であった。タイヤ売上額は、同じ期間内の平均で月額約二七五万円であり、これは本社外販の約三分の一である。工場販売においては、売上額の約二割が粗利益で(右期間において月額約五五万円)、そこから人件費、維持管理費、水道光熱費等の諸経費を控除したものが純利益となるから、タイヤ修理工場では二人分の人件費をまかなうことは困難であった。昭和五七、五八年ころ、取締役営業部長福田俊夫がタイヤ修理工場について人件費も出ていないことから、閉鎖することを含めて抜本的に検討するようにとの趣旨の発言をしたことがあった。昭和六〇年六月ころ、嵓課員がタイヤ修理工場のクーラーの取替えを本社に要望した際、福田がもうかっていないことを理由にこれに反対したため、旧いクーラーを修理して使っていた。また、タイヤ修理工場の建物は、雨漏りがし、梅本部長付が応援にいっているときにも大雨で工場の床が水浸しになったことがあり、嵓課員が何度も修繕を要望したが、その補修はされなかった。

(四) 嵓は、昭和四九年に修理工場の仕事を担当するようになった当初から一人で仕事をするのは無理と思っていて、何度も技術を有する人員の増加を要請していたが、タイヤ修理工場への配置人員は別表記載のとおりであり、一時期二人配置されていたものの、それ以外は応援要員が派遣される程度であった。

(五) 原告は、昭和六〇年一月三一日の午後六時ころ、営業二課の采野に翌二月一日からタイヤ修理工場へ行くように命じた。采野は、その直前に就業規則の変更に関し、原告から求められた同意書に署名することをしなかったことがあった。采野は、原告本社から相当離れた立命館大学の二部に通学していて、そのことは西原課長も承知していたことであった。また、原告は、交通の不便なタイヤ修理工場に配属するに当たり、通常の従業員には社用車を使用させていたが、采野にはこれを提供しようとしなかった。采野は結局右タイヤ工場への配属を拒否して同年二月一五日原告を退職した。

(六) その直後である同月一九日に前記のとおり、安岡に対する配転命令が発せられたのであるが、当時の営業部の人員は前年九月一日と比較すると、二名減員になっていた。これに反しタイヤ修理工場は、休職していた嵓が昭和六〇年一月一六日修帰し、休職前の人員配置に戻ったところであった。

(七) 原告の新入社員の採用は前年の一〇月には決定しているにもかかわらず、安岡解雇後の昭和六〇年四月一日には、新たな人員はタイヤ修理工場に配属されず、別表のとおり、約一週間ごとに応援がなされるのみで、同年五月一日からは福田一郎が修理工場に勤務したが、同人は大学昼間部に在籍していて、工場にいたのは三か月に過ぎず、その間も休んでいたほうが多い状態であった。なお、タイヤ修理工場の敷地にはガソリンスタンドが建設され、平成元年一二月から営業が開始された。

(八) 以上の当事者間に争いのない事実及び認定事実等によれば、安岡に対する応援命令は、采野を配属しようとしたところ同人がこれを拒否して退職した直後になされているので、一応その必要性があったようにもみえる。しかしながら、采野又は安岡に対する応援命令当時、原告主張のように、タイヤ修理工場が不可欠の施設であり、タイヤ販売政策上重要な部署であったわけではなく、むしろ原告は、同工場を重要視していなかったものということができる。そして、采野に対する配属命令は、就業規則に関して同人が原告の求めた署名を拒否するということがあった後に、大学に通学することに支障となることを承知しながらなされ、しかも、采野には通常の従業員に与えられる便宜を提供しようとしなかったものであることからみて、純粋に業務上の必要性からされたものとするのは疑問である。さらに、タイヤ修理工場への人員配置状況を見ると、采野又は安岡に対する応援命令当時、嵓の復帰により、タイヤ修理工場の人員は従前の状態にほぼ戻っていたもので、その後の状況からも特段人員を補充する必要があったとは考えられない。また、安岡を応援要員として選定したことについても、タイヤ修理工場の業務には、工場へでて行う営業的業務はほとんどなかったのであるし、営業実務のできる者、とりわけ安岡のような主任職にあった者を特に必要とした事情は見当たらない。そうすると、タイヤ修理工場の人員の充実を図る必要から安岡を派遣しようとしたものと認めることはできず、同人に対する応援命令には合理性があったとの原告の主張は、採用することはできない。

2  不当労働行為の成否

前記一4で認定の事実、同5のとおり安岡らに対する本件人事異動が不当労働行為であること、原告が、安岡に対してタイヤ修理工場への応援を命じる必要性があり、その人選が合理的であったとは認められないことを考え合わせれば、安岡に対する応援命令は、労働組合活動上不利益を与えることを意図した支配介入であり、したがって、これを拒否したことを理由としてなされた本件解雇も不当労働行為に該当すると認められる。

三  金井の役職手当の支給を命ずることの可否について

不当労働行為救済命令の申立てにおいて、労働組合の求める救済内容が組合員個人の雇用関係上の権利利益の回復という形をとる場合には、当該組合員がその権利利益を放棄する旨の意思を積極的に表示すれば、当働組合は右のような内容の救済を求めることができないと解されるが、本件においては、昭和六一年二月二五日原告を退職した金井が退職時あるいは本件命令発布前に原告に対し、受けるべき役職手当の請求権を放棄する旨の意思表示をした事実を認めるに足りる証拠はないから、本件命令が金井に対する役職手当相当額等の支払を命じたことに違法はない。

第四結論

よって、本件命令には違法はなく、原告の請求は棄却されるべきである

(裁判長裁判官 相良朋紀 裁判官 長谷川誠 阿部正幸)

〈以下省略〉

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